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母と私(1)血縁って、なんだっけ

!!注意!!CAUTION!!注意!!
※親に対する恨みつらみと偏見が山盛りです。
※ざっくり言うと毒親の話です。

 

 

こんにちは、潰瘍性大腸炎かあちゃんです。

やっと少し気持ちの整理がついた気がするので、少しずつ吐き出していこうと思います。

 

私はブログやTwitterで、義母の話はよくするけれど、実母の話は滅多にしません。父親となると、いつ話した?ってくらい。

実は19になる少し手前で、私は実家を飛び出して以来彼らに連絡を取っていません。

 

この話は少しずつではありますが、過去記事でもやんわりと触れています。

[過去]

 

家を飛び出すに至った理由はいろいろあるのですが、まずは幼いころから抱いていた違和感からお話ししようと思います。

 

私の父親は、パチンコ依存症でした。
私の母親は、そんな人でも授かった子供がいるからと結婚し、出産しました。

母、当時25歳。産まれたのは、私。

その2年後、妹が。さらに3年後、もうひとり妹が。

父親の記憶はほとんどありません、64やスーパーファミコンで遊んでくれていたな、というくらい。
妹は高校生になったころ「小さい頃に実父にいじめられていた、暴力を振るわれた」などの身体的DVを訴えていましたが、その中身は詳しく話してくれなかったので実際にあったのかは分かりません。

一番下の妹が2歳になる前、私が小学2年生の夏、両親は離婚しました。
真夜中になると喧嘩する声が聞こえてきて、灰皿をガンガン叩いて鳴らしていて、換気扇の回る音がして。
お金がないって言っているのになんでタバコを吸うんだろう、と子供ながらに思っていました。

 

夏に引っ越した母子は、私から見た父方の祖父母にお世話になっていました。
母は介護施設で勤務を始め、私は1kmほどの海岸線を歩いて小学校へ。
今でもあの島は思い出がいろいろ詰まっていて、私の大好きな場所です。

母にはすぐ、恋人ができました。それも頻繁に。
介護施設の先輩。弁護士志望の苦学生。なにしてるかよく分からなかった人。
母の仕事が終わり、真夜中に車で何度も恋人のもとへ母子で通っていました。
破局したときに決まって口にしていたのが、「あなたたちのためを思って」でした。

 

私が10歳か11歳のころ、母は看護師になると言って看護学校に入学しました。
昼は仕事、夕方から学校。それでも恋愛はやめない。
このころから、のちに養父となる男性と交際していたような気がします。

 

私は純粋に、母を尊敬していました。
看護の勉強大変そう。すごい。
でも同時に、軽蔑していました。
私たちを恋愛の障壁だと思うのなら、なぜ産んだんだろう。

 

中学生になると母の就職先も決まり、祖父母の家から市営住宅への引っ越しが決まりました。
島の中でもそこそこ新しい建物です。

転居は中学1年の秋。
転校は中学2年から。

そこから、私の体調はどんどん崩れていっていました。
でも、看護師になった母に体調不良を訴えても、「気のせい」「風邪」と一蹴され、やっとこさ病院に行けたとしても、そもそも母親から医師に「不定愁訴(何となく体調が悪いという自覚症状)」として伝わっているので、風邪としか判断されません。
やったとしても、熱を下げる点滴くらい。
学校で体調が悪くなっても、担任と母親が仲が良く頻繁に電話連絡をしていたので、早退したり、途中で病院に行ったりすることは滅多にありませんでした。
もちろん、学校でどんなことをしていたか、家庭でどんな過ごし方をしているかも筒抜けなので、家にも学校にも行きたくない、帰りたくない状況が続いていました。

 

中学3年になるころには、体重が38kgまで落ちて痩せこけ、高熱が続くようになりました。もともとは41~2kgで推移していたので、急激に3kg落ちたのは人生で初めてのことです。そして同時に、急激な体重低下の影響で月経も2ヶ月ほど止まりました。
母が出勤している病院へ歩いて受診しにいくのも、たった10分の距離なのにふわふわと地に足がついていないような感覚で、とにかくしんどくて。

それでも、母が通院に付き添ってくれることも、祖父母の力を借りて療養することも、大きな病院に行くことも一切ありませんでした。
ひとりで苦しんで、ひとりで病院に行って、ひとりで家で横になって。
そんな中学校生活、楽しいと思えたことはあまりありません。

 

だんだんと氷食症と抜毛症が酷くなっていきました。
文字通りなのですが、氷食症は「氷をかじる」病気、抜毛症は「髪をわざと抜く」病気です。
どちらもストレスからくるものだと言われています。

氷をかじるくらいなら、と母から与えられたのは、氷砂糖。

違う、そうじゃない…
私は好き好んで氷を食べたいわけでも、氷砂糖を与えられたいわけでもない!!!!!!

そう思いながら、人の目を盗みながら氷をかじり、髪を抜いていました。ストレスで体がニコチンを求めてタバコがやめられないのと同じように、過度なストレスで衝動のやり場が見つからず、それらがやめられなくなっていました。
今ではさっぱりその症状はなくなりましたが、当時はおそらく1日にロックアイス1kg分くらいなら平気で消えていたのではないでしょうか。

 

体調はどんどん悪化し、中学3年の秋。そのころには緑色の、胆汁の色がしっかり反映された水様便ばかりになっていました。血便も粘液もあったと思います。
緑、黒、赤、鮮血。もう大腸が機能していなかったのだと思います。
深夜に緊急で母の勤務先を受診し、トイレで吐き気を我慢しながら、高熱と寒気で震えながら座っていたのを、母はただ見ているだけでした。

本当にこの人は看護師なんだろうか?
目の前の自分の子供すらこんな対応をするこのひとを、看護師と呼んでいいのだろうか?
母親に対する尊敬の念は、無くなっていました。

 

その時期ちょうど、母が交際していた相手は昇格のチャンスを与えられ、そのために日々努力を重ねている最中でした。
さらにマンションの下見に行ったり、中古住宅のチラシを見比べたり。
妹たちとは「結婚するんだろうね」と、どこか他人事のように話していました。

ある程度昇格が内定したころ、母と交際相手が揃って私たちに聞いてきました。
結婚してもいいよね?と。

また引越しするんだろうなぁ。高校どうなるんだろう。また友達がいなくなる。
そんなことを思いながら、首を縦に振る以外の選択肢はありませんでした。反抗すれば家から追い出され要らない存在になってしまうという怖さもあったのだと思います。

そこからはトントン拍子に進んでいき、両家顔合わせ、マンション決定、その合間に高校の入学試験。
中学の友人には、「高校に上がると名字が変わるから」と告げていたと思います。

 


 

親が離婚した直後から、私が家を出て親から離れるまで、強く「生きたい」と思ったことはありません。
生きていてよかったと思えるような嬉しい体験も、将来への希望も、人より少なかったと思います。
あの場所から落ちたら… あそこにロープをかけて… ここにあるカッターで…

命を絶ちたいと思う気持ち、いわゆる【自死念慮】を、ずっと抱えていました。
ごはんは胃に流し込むだけの栄養。勉強するのは怒られないため。いい学校に進学するのは親の外面のため。

でも、ひとつだけ。
【学校から出された提出物をやらない】という形で成績をわざと下げるのは、私なりの精一杯の反抗だったのだと思います。
おかげで成績はメキメキと下がって、母にごり押しされていた高等専門学校には受験できなくなり、入試を受けたところも指一本で引っ掛かった状態でしたけどね。

 

子を持つ親になった今、思うこと。

血縁って、一体なんだろう?

私が産まれた理由が、私は今でもわからない。
もちろん人なんて産んだ理由とか産まれた理由なんてないのだけれど、

「荷物になる」「お前たちが居るから別れた」「お前たちのために」というわりに、
外見を気にして、恋愛に打ち込み、教育をしなかった。

その理由を私は、今でも探しているのかもしれないです。

 



ここまで読んでいただきありがとうございました!
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